2010年02月09日
仏紙「ルモンド」の名護市市長選の結果を受けた素晴らしい記事
ルモンドをはじめ、世界のメディアがokinawaに注目して記事を続けて配信していますが、日本のメディアの恣意的な報道よりも遙かに、そこでは、小さな島の苦しみ、市民の意志が率直に描かれているように思います。
→ルモンド関連記事リンク(なお、記事は有料配信です。)
遠い地にあって、この記事を紹介し翻訳して送って下さったNAさん、感謝です!
以下----NAさんからのメールです。
ルモンドの名護市市長選の結果を受けた素晴らしい記事を翻訳しました。是非お読み下さい。遠くから応援しております。この記事を書いてくれたのはフィリップ・ポンスさんです。
「日本、名護の選挙民はアメリカの基地の移転を拒否した」
地方選挙が内政そして外政に同じ影響を及ぼすような選挙はめったにない、1月24日日曜日に沖縄諸島の本島、名護市(住民60000人)の市長選挙がそれにあたる。
最大の争点は米軍普天間基地(宜野湾市)を辺野古、名護市の東側の町への移設問題だった。
その計画は短気なアメリカと住民の意見報告を聞こうとする日本との軋轢を生じた。
新しい基地の建設に反対した稲嶺すすむ氏が勝利をつかんだ(投票52%)ことは東京とワシントンの人々への明確なメッセージとなった。
プラカードを掲げて2000日以上、辺野古の付近の12箇所ほどの村から集まった反対運動家たちは珊瑚棚の切れ目の浅瀬からさらに遠くのエメラルドグリーンの海をずっと監視してきた。
白砂のビーチ、珊瑚環礁の入り江、松の植えてある小さな島、おうら海岸に彼らがテントを張っている場所の前には1本1800メートルのV字型をした滑走路を備える新しい米軍基地が予定されていた。
青珊瑚の珊瑚礁、ジュゴン(海棲哺乳類、保護種)、彼らの祖先が自然を神聖なものとあがめ祈っていた島々、そしてマングローブの魅惑的な風景をコンクリートの覆いの下に消されてしまうことが沖縄の米軍基地への反対を昇華させた。
辺野古の漁師たちと砂糖きびやとうもろこしを栽培する農家の共同闘争は半世紀以上続いている反対運動の記録の中に書き込まれた。
「長い間、沖縄の住民はあきらめていたとおもう」宜野湾市(住民90000人)の市長、伊波よういち氏は語る。
「彼らがどんなに抗議しようとどんな被害をこうむろうと、国家からはないがしろにされてきた。そんなことはもうなくなった。」
普天間基地の面倒な移転とそれに付随する障害(騒音、事故、犯罪)で、伊波氏は沖縄県内のほかの場所への移転に関しても反対だ。
宜野湾市の地図をみると人口密集地の真ん中に灰色の巨大な灰色のしみがある。
それは2800メートルの滑走路が設置された、町の面積の25%を占める海兵隊の基地である。
日によって、近隣住民の家の窓を揺らす離発着が100回から200回と数えられる。
「この騒音には耐えられない」ある小学校教諭は言う。
それに5分間隔でヘリコプターが続く。とうとう2004年にはヘリコプターの一機が大学の上に墜落した。
47000人の日本にいる兵隊の3分の2は沖縄に駐留しており、日本国の総面積の0,6%にも満たない沖縄諸島で34の基地、もしくは宿営地、そして練習地の受け入れをしている。
1972年まで沖縄はアメリカの統治下にあった。
そして日本への返還にても基地状況が変わることがなれば、アメリカ軍の治外法権の特権も変わることがなかった。
10年間に及ぶ交渉の結果2006年に結ばれた合意は1997年の選挙にて反対した住民が多かったにもかかわらず、普天間基地を辺野古に移動するというものであった。
任期満了に伴い、今日落選した、島袋よしかず氏は辺野古への条件付移設もしくはキャンプシュワブのある高台のほうへの移設を公約していた。
市民はおうら湾の埋め立てにおいて発生する環境的な損害とともに住民はだまされたという感情をもった、なぜなら、「失業率は12,9%(日本全体の失業率の倍)で、土木工事の契約は地元の会社はほんの少しで大手会社がほとんどを結んだ。」
と名護市の市民運動家の浦島えつこ氏は語った。
市議が市民の不満をうけいれ、反対派のひとりひとりのはなしを聞いた。
東京でも、風向きが変わった。
日本民主党、鳩山由紀夫首相が9月から2006年の合意の再交渉をすると公約した。稲嶺氏の当選を受け、東京は沖縄以外での移設場所を見つける選択を取らざるをえず、アメリカの不満と対峙することになる。
そしてその結果、名護の闘争は他の反対派を刺激する。
沖縄の北のやんばるの山に予定されている、米軍の7500ヘクタールにも及ぶジャングルの中の演習場に作る新しいヘリポート建設に対する反対は市民の運動である。
終わり
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「日本、名護の選挙民はアメリカの基地の移転を拒否した」
地方選挙が内政そして外政に同じ影響を及ぼすような選挙はめったにない、1月24日日曜日に沖縄諸島の本島、名護市(住民60000人)の市長選挙がそれにあたる。
最大の争点は米軍普天間基地(宜野湾市)を辺野古、名護市の東側の町への移設問題だった。
その計画は短気なアメリカと住民の意見報告を聞こうとする日本との軋轢を生じた。
新しい基地の建設に反対した稲嶺すすむ氏が勝利をつかんだ(投票52%)ことは東京とワシントンの人々への明確なメッセージとなった。
プラカードを掲げて2000日以上、辺野古の付近の12箇所ほどの村から集まった反対運動家たちは珊瑚棚の切れ目の浅瀬からさらに遠くのエメラルドグリーンの海をずっと監視してきた。
白砂のビーチ、珊瑚環礁の入り江、松の植えてある小さな島、おうら海岸に彼らがテントを張っている場所の前には1本1800メートルのV字型をした滑走路を備える新しい米軍基地が予定されていた。
青珊瑚の珊瑚礁、ジュゴン(海棲哺乳類、保護種)、彼らの祖先が自然を神聖なものとあがめ祈っていた島々、そしてマングローブの魅惑的な風景をコンクリートの覆いの下に消されてしまうことが沖縄の米軍基地への反対を昇華させた。
辺野古の漁師たちと砂糖きびやとうもろこしを栽培する農家の共同闘争は半世紀以上続いている反対運動の記録の中に書き込まれた。
「長い間、沖縄の住民はあきらめていたとおもう」宜野湾市(住民90000人)の市長、伊波よういち氏は語る。
「彼らがどんなに抗議しようとどんな被害をこうむろうと、国家からはないがしろにされてきた。そんなことはもうなくなった。」
普天間基地の面倒な移転とそれに付随する障害(騒音、事故、犯罪)で、伊波氏は沖縄県内のほかの場所への移転に関しても反対だ。
宜野湾市の地図をみると人口密集地の真ん中に灰色の巨大な灰色のしみがある。
それは2800メートルの滑走路が設置された、町の面積の25%を占める海兵隊の基地である。
日によって、近隣住民の家の窓を揺らす離発着が100回から200回と数えられる。
「この騒音には耐えられない」ある小学校教諭は言う。
それに5分間隔でヘリコプターが続く。とうとう2004年にはヘリコプターの一機が大学の上に墜落した。
47000人の日本にいる兵隊の3分の2は沖縄に駐留しており、日本国の総面積の0,6%にも満たない沖縄諸島で34の基地、もしくは宿営地、そして練習地の受け入れをしている。
1972年まで沖縄はアメリカの統治下にあった。
そして日本への返還にても基地状況が変わることがなれば、アメリカ軍の治外法権の特権も変わることがなかった。
10年間に及ぶ交渉の結果2006年に結ばれた合意は1997年の選挙にて反対した住民が多かったにもかかわらず、普天間基地を辺野古に移動するというものであった。
任期満了に伴い、今日落選した、島袋よしかず氏は辺野古への条件付移設もしくはキャンプシュワブのある高台のほうへの移設を公約していた。
市民はおうら湾の埋め立てにおいて発生する環境的な損害とともに住民はだまされたという感情をもった、なぜなら、「失業率は12,9%(日本全体の失業率の倍)で、土木工事の契約は地元の会社はほんの少しで大手会社がほとんどを結んだ。」
と名護市の市民運動家の浦島えつこ氏は語った。
市議が市民の不満をうけいれ、反対派のひとりひとりのはなしを聞いた。
東京でも、風向きが変わった。
日本民主党、鳩山由紀夫首相が9月から2006年の合意の再交渉をすると公約した。稲嶺氏の当選を受け、東京は沖縄以外での移設場所を見つける選択を取らざるをえず、アメリカの不満と対峙することになる。
そしてその結果、名護の闘争は他の反対派を刺激する。
沖縄の北のやんばるの山に予定されている、米軍の7500ヘクタールにも及ぶジャングルの中の演習場に作る新しいヘリポート建設に対する反対は市民の運動である。
終わり
Posted by n_n at 08:52
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