東京新聞記事
六〇年安保闘争から半世紀 ~沖縄・安保問われながらも「静かな6月」
戦後最大の反政府運動だった六〇年安保闘争。半世紀前の六月、国会周辺は連日、日米安保条約改正阻止を訴える数十万人の人波に埋め尽くされた。沖縄・普天間問題や密約問題が焦点となった今年、「安保」は久々に注目された。しかし、本土では沖縄県民に寄り添うような街頭行動は限られた。半世紀を隔てての大衆運動の浮き沈み。かつての闘争経験者たちは現状をどう見ているのか。 (田原牧)
「ウチはまるで合宿所だった。地方からの学生が誰かしら泊まって、会議だ、夜食だ、とおにぎりばかり握っていた」
東京都三鷹市の自宅で島博子さん(74)は当時をそう振り返った。現在は独り暮らし。一九五八年に結婚し、六〇年当時は夫、母親と杉並区の3Kの長屋に住んでいた。
夫は安保闘争の主役、全学連主流派を率いた政治組織、共産主義者同盟(ブント)書記長の故島成郎(しげお)氏。博子さんは短大を卒業後、自ら設立に加わった大学生協に勤務しつつ、政治活動、主婦業と“三足のわらじ”をはいて走り回っていた。
なぜ、あれほどの大闘争になったのか。その問いに博子さんは「テレビで難民の映像を見ると、いまでも人ごとには思えない」と答えた。彼女自身が小学校三年生で敗戦を迎え、ソウルから引き揚げてきたからだ。
「六〇年は敗戦から十五年。戦争はまだ過去形ではなかった。人々は政治が一歩誤れば、またエライことになるという危機感を抱いていた」
大衆運動に社会を動かす力もあった。五六年、米軍立川基地(東京)の拡張反対を訴える砂川闘争で政府が測量を断念。五七年には核実験禁止運動が高揚し、五八年の警察官職務執行法改正も学生たちが阻止した。
「当時のお札は一番大きいのが千円札。砂川のころ、新宿駅西口で募金をすると、箱に千円札が山のように入った」
間近に見ていた全学連の闘士らの素顔は「いま風にいえば草食系」だったという。「大半が男性だったけど、とにかくまじめ。ただ、後にデザイン工房を立ち上げ、営業で一般の男性社会にもまれてみて、彼らの生活感を欠いた甘っちょろい側面にも気づかされた」
今日の学生運動の低迷につながる七〇年代の爆弾闘争や内ゲバを残念がる。「人の心ほど強い武器はない。それには非暴力の直接行動が一番だ。半世紀前も、最初は『学生さんがムダなことを』と冷笑された。でも、学生の愚直さが次第に人々の心を動かした」
夫の成郎さんは安保闘争後、東大医学部に復学。精神科医として、沖縄で先進的な地域医療づくりに尽くした。七〇年代には米軍普天間飛行場のある宜野湾市で暮らした。それだけに基地被害の苦しみに同情する。
今月、出版された改訂版「ブント私史」(批評社)に博子さんはこう記した。「若者が国家に向かって徒党を組んで抗議する、そんな沸き立つエネルギーをも、内包する社会にこそ、国家の未来があると思うのだが…」
「国会の南通用門に入ったが、警棒で頭を割られた。虎の門病院に運ばれたが、すぐ現場に戻って…」。これが評論家、長崎浩さん(73)=埼玉県朝霞市=の「6・15」の記憶だ。当時、東大大学院生で、当日のデモを指揮する一人だった。
今年、普天間問題で沖縄現地では九万人(主催者発表)もの人々が参加する集会が開かれた。一方、本土では依然“よそごと”扱い。長崎さんは温度差の根を六〇年安保闘争自体にみる。
「安保闘争は海外からは反米ナショナリズムの運動と理解されていた。だが、実態は違う。特に国会で批准が強行採決されて以降、安保の意味など二の次で、民主主義を踏みにじった岸内閣の倒閣運動になった。私たちもそれで組織(ブント)が大きくなれば、それでよいと考えていた」
しかも、この闘いは勝った。「新安保条約は批准されたが、岸内閣は倒れた。つまり勝った。この勝利で、人々は米軍の占領や貧乏といった敗戦後の気分に区切りをつけた」。実際、安保闘争から三カ月後、長崎さんは実家に帰り、テレビを見つけて驚いた。高度成長は始まりつつあった。
だが、それは米軍占領下の沖縄を“忘れる”ことでもあった。「本土の日本人が沖縄を“忘れていく”のとは逆に、冷戦体制の強化を図る米国は安保闘争を目の当たりにして不安になり、隔絶された沖縄に一段と基地を集中させていった」
六〇年安保闘争の「勝利」を機に、占領下の沖縄を捨て、近代化をひた走った「本土の大衆」。長崎さんは「現在の温度差の原因は五十年前に生まれた」と考える。
「その後の繁栄も民主主義も結局、沖縄の犠牲については見て見ぬふりという“自己欺瞞(ぎまん)”にまみれたものだった」
そうしたごまかしの蓄積が自縄自縛を生み、現在の閉塞(へいそく)感を醸し出しているのではないか-。安保闘争の後、繁栄に流れていく人々の群れに敗北感を感じ、考え続けてきた長崎さんの分析だ。
<60年安保闘争> 日米安全保障条約改正の阻止を掲げた大衆行動。社会党や総評などが結成した「安保改定阻止国民会議」を中心に全国で数百万人が参加した。政府(岸内閣)は5月20日未明、衆院で条約批准を強行採決。6月15日の国会デモで東大生、樺美智子さんが死亡した。この日から19日の条約自然承認の間は連日、数十万人の人々が国会に押し寄せた。運動の高揚で岸内閣は6月23日、総辞職した。
<デスクメモ> 物心ついたときからテレビと冷蔵庫と安保はあった。あって当たり前の安保。この違和感に気付かせてくれたのは、ともあれ鳩山内閣だった。沖縄はパンドラの箱。鳩山前首相は思い切って開けても良かった。化け物が飛び出して、みんなハッとわれに返ったろう。五十年の太平の夢から覚めただろう。 (充)
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